受け継がれる桐たんすの話
江戸時代中期
箪笥の誕生は1661年~1673年の大阪だそうで1711年~1716年頃から普及してきらしく、それまでは長持などの箱状の物に衣類を収納されていたみたいです。箪笥が普及してきた1716年は江戸の中期頃と言われています。
この頃は江戸の成長期で暮らしが次第に裕福になり着物の数もしだいに増え箪笥を使わなければいけないほど人々の持ち物が増えてきた。ですが箱状の物と比べると作るのに多くの材料、それに高度な技術も必要だったので高価な物だったと考えられます。貧富の差がまだまだあった頃なので貧しい庶民には手が出なかったそうです。
江戸の町は発展し、たくさんの人々が行き交い木造の建物がひしめき合っていたので一度火が出るとあっと言うまに燃え広がってしまったそうです。江戸は頻繁に大火に見舞われていて広大な市外地をなんども焼き払ったのは世界的にも稀だったそうです。江戸時代267年の間で47回大火にみまわれる。
安政江戸地震(あんせいえどじしん)は、1885年安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時
安政の地震による大火災、被害は大きく死者は1万人くらいと言われている
ですから非常事態に備えることに敏感になるのは考えるに難しくありません。非常時に雑に使っても大丈夫なように作りが頑丈であるとか、箪笥の角が壊れないように金具を付けたりその金具は太鼓鋲などを使って有事に備えることも家具の大事な条件でした。
そこで火に強い桐たんすに注目が集まったのではないかと考えられます。箪笥が二段重ね三段重ねでも棒通しと呼ばれる金具で連結されていて一段にして棒通しの金具を引き出し棒を差し込みすぐに持ち出せるような工夫もありました。
桐箪笥は燃えないとよく言われますが桐の木だって木なのですから燃えないってこと考えられません。
これは私の推測ですが桐材ではなく箪笥の形状になっていることが燃えにくくしてるのではないかと思います。
焼桐仕上げをするときバーナーで焼くのですが引き出しを焼いても本体との隙間があまり生まれないのです。ようするに空気が入りにくいことが燃えにくくする。
もう1つの理由は水の吸収率が高く消火活動をする上で桐箪笥に水がかかると水をすぐにすい込みます。消火活動が繰り返されていれば水をずっと含みっぱなしになるので回りは黒こげになっても中の物を守ってくれていたのだと思います。
桐たんすは水害にも強いと言われています。それは桐ほ木材の中で一番軽いと言われています。試しに桐材を水に落としてみたこたがありますが確かに沈みませんでした。あと沈まない理由としては桐たんすの高い機密性で隙間から水が入らないので箪笥自体が浮きの役割になり沈まないと言われています。
江戸時代後期~幕末
ちなみにこの頃の箪笥は武家の刀箪笥や船箪笥のどの和箪笥が主流で堅い欅(ケヤキ)などで作られた頑丈でゴツイ印象のものでした。当時は金庫としての役割や盗難防止もある物も多くからくり箪笥や非常時に押して持ち出せる車箪笥などもあったそうです。
この頃の箪笥はゴツイくて金具がたくさん装飾され重量もあり男性が使うことを前提とした男性的な家具と言ってもいいでしょう。
江戸時代の後期(幕末)ぐらいから庶民にも箪笥が普及してきて特に注目を集めてきたのが桐箪笥だったのです、女の子が生まれると桐の木を庭に植えて嫁に行く頃にはりっぱな成木になりその桐の気を切り倒して箪笥を作ったと言われています。ご存知ない人も多いですが、とても有名な話です。
桐の木は15年~20年ほどでタンスが作れる大きさになるそうです。人生五十年と言われる江戸時代の頃は嫁入りも早く14歳~16歳で結婚するのが一般的だそうで20歳を超えると「薹(とう)が立った」(ふきのとうが食べ頃を過ぎた、食用に適さない)などと言われてしまう時代です。
庭に成長しきってない桐の木を見かけると嫁入り前の娘がいるとわかったそうです。
嫁入りの時期と同じ15年ぐらいで成木になる桐の木で作る桐箪笥は高級家具とされ嫁入り道具となった。また、日本には四季があり湿気があると膨張し、乾燥すると収縮し調湿高価に優れています。
具体的には湿度が多い時は膨張して引き出しや扉の隙間がなくなることで箪笥の中に湿気の侵入を防ぎ、乾燥している時は収縮して隙間を開け風通しを良くすることで箪笥の中は一定の環境を自然に作ってくれる訳です。
なので湿気などから守ってくれる桐たんすは着物を入れて置くのに最適だったのだと思います。
明治時代
「散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」の明治時代になると
余談ですがこの意味は、ちょんまげを切って西洋人のような髪形をした男子が当時の文明開化を象徴していた。ですが本当は中々ちょんまげを切ってくれない人向けの政府のキャンペーンだったとの話。
明治時代に移ると箪笥も頑丈、防犯、金庫としての役割からより収納や実用性に重きを置いて進化していき、柔らかく軽くて見た目は優雅な桐箪笥が主流になり市場にたくさん出て行ったそうです。金具もゴツイ装飾などは付けずシンプルな金具に変わっていったそうです。
この頃の女性は武家社会は終わったとはいえ、まだまだ家の中を守る役割が大きく女性が扱いやすくないといけなかったのかもしれません。桐タンスは女性でも三段重ねでも1段にすれば十分移動可能な重さです。こうやってより女性が扱いやすい家具になって行き、女性のたくさんのこうして欲しいとの要望により使いやすさ、実用性、見栄えなどを多くの箪笥職人が技術を競いあったことでしょう。桐箪笥は柔らかく軽く手触り・使い心地が良く仕上げのトノコ色などは木の呼吸を妨げない女性のお化粧そのものです。桐たんすの独特の風合いは女性らしさからきているのかもしれません。
女性なしではその後の桐箪笥は生まれなかったとても繊細で美しい家具なので大事に大事に使われて、これからも受け継がれていくのだと思います。
大正に入ると最盛期
この頃の経済を調べてみると経済は着実に発展してきて第一次世界大戦が始まると一時的に恐慌になるものの大正4年の終わり頃から好況になりつつあったと記述されている。
ヨーロッパを主戦場にした第一次世界大戦の起こり日本は圏外に位置していて商品輸出が盛んになり対戦景気(大正バブル)と呼ばれた。
そんな中好景気の波におされて、桐たんすの生産量もかなりのものだったんじゃないかと推察される。デザインなども二段の箪笥から三段重ねの箪笥が登場したのもこの頃からと言われている。
最も桐箪笥が生産された時期とも言われています。
- 【前桐箪笥】 前面だけ桐で出来たタンスのことを言います。
- 【三方桐箪笥】 前と両横が桐で出来たタンスのことを言います。
- 【四方桐箪笥】 前と両横と後ろ側が桐で出来たタンスのことを言います。
- 【総桐箪笥】 箪笥のすべてが桐で出来たタンスのことを言います。
この1~4は桐箪笥のランクになります。もちろん4の総桐箪笥が桐たんすの中の最高峰になり、この時代に総桐箪笥を持っていたと言うことは資産家の女性の嫁入り道具に持たされた物と想像できます。(たぶん)
大事な娘の嫁入りに恥じをかかせたくない親心で見栄を張る親御さんもいたかも知れませんね。それでも四方桐がいい所で中々総桐箪笥は持たせられないぐらい高級だったそうです。
この時代の主な出来事は
- 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に、関東大震災が発生
多くの尊い命と家財が失われたことでしょう。
昭和 戦後厳しい状態に
1935~1945の6年間、第二次世界大戦がおこる
戦後になると日本人の生活環境がガラッと変わり大量の外国の文化が入ってくることになり、桐たんすの需要が大きく減ったと聞いています。洋式の家具に押され職人もそちらに流れていってしまったそうです。
ですが停滞期はあったものの確かな品質と職人技の伝統工芸が見直され厳しい時代を乗り切ったと言われています。
戦後はまずしくても未来は明るかったと私の父に聞いたことがあります。それはなぜか?復興というやらなければいけない仕事があり、アメリカ文化が日本に入ってきたことも刺激があったのではないか、と私は思う。また家電の白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機は三種の神器と呼ばれ新しい生活の象徴とも言われた。それらの家電は雲の上の存在ではなく、努力さえすれば手に入れられると思うことで頑張れたのではないでしょうか。ある意味国民が1つに団結した時代とも言えるのではないかと私は思います。
1980年代に入るとバブル景気になると高級桐箪笥の価格も最高に
不動産価格の異常な高騰によるバブル景気になりました。土地やマンションを買った1年後には倍の値段になっていたなんて話はそこらじゅうに転がっていた、そんな時代でした。
世間では他人とは違う他人より良い物を追求するようになりブランド物のバックが飛ぶように売れていたようです。求める物が高級志向になり、桐たんすも大きいサイズが金具も豪華な物が好まれるようになりその分桐箪笥の価格が上がっていたようです。
1989年~ 平成
1990年にバブル崩壊が起きます。バブルが弾けたと言ってもそれを直ぐに体感できるわけもなく5年ぐらい経ってから気づくものです。これをキッカケに後に「失われた10年」などと言われました。
桐たんすはこうやって良い時代も厳しい時代も進化して発展してきました。
今の若い人は桐たんすを知らない人も多いかもしれませんが、私たち大人は子供の頃おばあちゃんの家にいくと置いてあった箪笥が桐たんす、そんな風に覚えているのではないかと思います。そう、そのおばあちゃんの桐たんすには歴史を振り返ると様々な物語があります。だから黒ずんでいても捨てられず今でもお家のどこかにあるにあるのです。
そんな大切な思いを受け継いで行けたら素敵ですね。